2014年12月21日日曜日

中村文則『土の中の子供』を読んで

最近、中村文則の『土の中の子供』を読んだ。
これは記念すべき芥川賞受賞作。
なんか思ったよりもえぐい話だったなあ。きちんと頭のなかで整理するためにも、もう一回くらい読み返す必要がありそう。

芸術作品では、よく、海は母親、大地は父親に喩えられたりしますけど、この作品での土の中とは、それらを超越したもっと意識の上にあるもの…凡庸にいえば神とかホトケとかそういうことになるんでしょうけど、もっと漠然とした力のようなものに守られている安心感…みたいなのをあらわしているのかなあ。と。
主人公は土の中に安心感を感じつつ、でも同時に違和感を感じる。その違和感の正体を掴むため、それで、もう一度地上に戻ってくる。
地上って業をもった人たちの集まりだし、非常につらい場所だと思う。そんな場所に生み落とした親を恨んだって、その親もそうして不本意に生み落とされた一対の人間に過ぎず、その恨みや鬱屈としたきもちは、世界の誰にもぶつけることができない。
だからわたしたちはこうして何かを書いたり読んだり、見たり触ったり、話したりして、なんとか自分を納得させようと、意味を見出そうと(もしくは意味なんてものをなくしてしまおうと)しているのかもしれない…。

この作品、ちょっと萩尾望都の『残酷な神が支配する』とダブるんですよね。
「私」もジェルミ同様、まだ子供の時期に残酷な虐待を受けていますし。
あと、ラストシーンで、墓(土の中)から手を伸ばしたサンドラが、ジェルミにキスするじゃないですか。あれなんて、まさに土=神の象徴にしているシーンだと思う。
またこの作品のモノローグに「子供は親への供物」というのがある。子供の人生そのものが親への、つまり神への供物になっている。だから、人間は永遠にこのしがらみからは逃れられない。罪のDNAとでもいうべきか、無限に伝承されていく。
この漫画を読んだとき、人間っていうのは意識的にせよ無意識にせよ、かなり恐ろしいことをやっているんだなあと感じたものです。

萩尾望都自身、親と子の確執をずうっと描き続けてきた作家だと思うのですが、中村文則もそうなんじゃないか、と思っていて。
中村作品の主人公の「私」には大体親がいなかったり、いても本当の親じゃなかったりする。ここまで執拗に親という存在を消しまくるというのは、かなり親への拒絶感があるんだと思うんです。言い方は悪いですが、親が居る限り子供は永遠に親の所有物にすぎず、その枠からは出れないんです。養育費や学費をすべて返そうが、今まで育ててもらったことに対する負い目のようなものは、親が生きている限り、否、亡くなってもなお付きまとうのです。
では、親に捨てられた子供の場合はどうか? もうこれは完全に親と子の関係は断絶されますよね。親が子供を縛ることはできません。でも、今度は子供が自発的に親に縛られようとする。『土の中の子供』の主人公もそうですが、暴力を振るわれる自分に存在意義を見出すようになってしまう。
最後は実の父との再会を拒絶することにより、完全に個となった自分を回復します。
私は、この話を断絶された親と子の物語だと読みました。

わたしが中村作品を読みはじめたのは、わりと最近。いちばん初めに読んだ本は『銃』だった。
銃を拾ったことをきっかけに、銃の魅力にとりつかれる若い男の話。めちゃくちゃ優れている小説だとは思わなかったけど、一気に読ませる話だなあと思った。警官に尋問されるところはかなりどきどきした。 こういうはなしって書き方によってはすごい陳腐になりそうだけど、中村文則の文章からはそういう下品さを感じない。文章とか、文体とはなんぞやってくらい淡々としてるんだけど、どこか静謐なつめたさがあって、私は彼の文章を読むとちょっと背筋がひゅっとするような感じがします。

「作家はデビュー作に向かって成熟する」って言ってたのは誰だっけ?三島由紀夫? (亀井勝一郎氏でした)わかんないけど、中村文則はまさにそれにはまるタイプの作家さんなのではないだろーか。と、ぼんやり考えたりしました。

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