2015年8月7日金曜日

今日、Cambridge,England に旅立ちます。

約一ヶ月間の短期留学?研修?みたいのに出発しまーす。

意外と買ったり詰めたりするものが多くてですね、荷造りが完全に終ったのはついさっきです。なんかまだ忘れてるものがある気がしてソワソワするなあ。。
昨日は友達が軽い送別会的なものをやってくれて(たった一ヶ月なのにほんとに有り難いですね)インスタントのお味噌汁まで持たせてくれました。おかあさーん(T_T)


海外に行くって、行くこと自体は簡単かもしれないけれど、そこに行き着くまで多くの人びとを巻き込むものなんだな、と思いました。特に、旅費から生活費から、準備に至るまで手厚くフォローしてくだすった母上にはホンット頭が上がりません。きちんとお礼できていないのが心残りである。餞別をくれた姉も。ありがとうー。

たくさんのものを見て感じて帰ってきたいなと思いましたね。
海外に一ヶ月も居られる機会なんて、もしかしたらこの先二度とないかもしれないですからね。とにかく毎日いっぱいいっぱい楽しもうと思います。
イギリス人(というのはあんまり良くない括り方らしいですが。イングランド育ちはイングリッシュピープル)の方たちも、ケンブリッジ、と言うと皆さん口を揃えて「いいところですねー」と仰っていたので、本当にいいところなんだろうなあと。
緑が豊かで、とにかく自然が美しく、学問の都とだけあって街中にトラディショナルな雰囲気が漂っているそうな。
まさにアナザーカントリー的世界やん……?(なんでも自分の趣味に結びつける悪い癖)

そうそう!全然関係ないんですけど、イギリスに行ったら絶対絶対パブリックスクールの内部を見学したい〜!って思ってたんですよ。(そういうツアーがある)
でも今年秋まで改装?かなんかで見学ができなくなっているんですよね……本当に残念でした。せめて外観だけでも見れたらいいなあと思っています。


そんな感じで、もうここまで迫ってくると不安よりも、謎の高揚感のほうが先立って、奇妙なテンションになっているのですが、一つだけマジで不安な事項があってですね。
それが今年で2年半の相棒・iPhone5ちゃんなわけで。
なぜか、今日になって絶不調になったんです。
なんか誤作動がひどい。スワイプしてないのに画面がワーーって動き出したりする……怖。もーどうすればいいのだ。明日からイングランドなんすけど。大丈夫なんですかね。

やっぱり非正規ショップに修理を出したのが駄目だったのかなあ。
なんか前よりも若干、液晶ガラスが厚くなったような気がするんだよねえ…安さを優先したばかりに逆に高くついちゃったね……ハハハハ。

ああぁぁあ、、早くも暗雲が立ちこめている……
最悪パソコンを持って行くので、ネットはそれでオッケーなんですけども、街中で持ち歩くのは絶対iPhoneなので、全く使えなくなっちゃったらどうしよーって不安は常にある。

もちろん紙の地図も持って行きますが、大英博物館の前なんかで地図バッサーって拡げるってめちゃくちゃアホくさい気がするし、いかにもサイトシーイング!って雰囲気で、カモにされそうで怖い。ただでさえ初ヨーロッパなので警戒心はすでに臨界点。なので、基本iPhoneのオフラインマップで行動しようと思ってます。
(もちろん、事前にがっつり計画は立てた上で!)
がんばってくれ!My iPhone!

2015年7月27日月曜日

JAKE BUGG

Jake Bugg のファースト"Jake Bugg"を垂れ流している毎日。

Jake Bugg
Jake Bugg

いや、本当にいいですね。
ロキノン受けする音楽というか。本当にロックンロール!ごりごりのギターサウンド!しかもアコギ!!テイストは全く違うのにどことなく漂うオアシス臭!!って感じ。好きです。正直書くのが恥ずかしいくらい音楽の事とか全然詳しくないんですけど、このまま自分のなかでこじらせてると自家中毒になりそう。なので、つたないなりにアウトプットをはかろうとおもう。

彼のパーソナルな部分に触れたくて、ツイッターやらホームページやらのぞいても英語だらけで(当然だ)、普段まともに英語に関わっていない自分はろくにわからない。同じ94年生まれであり、対して彼は17歳でメジャーレコードと契約しており、これまでに2枚のアルバムを発売している。現在21歳。正直それくらいしかわからない。
英語版Wikiいわく、12歳のとき叔父に薦められてギターを始めたらしい。その後、ミュージックテクノロジーコースに進学するも、16歳でドロップアウト。17歳にはBBCに出演。
ていうかギターはじめてたった5年後にデビューってすごすぎる。。

で、全然私はまだJake BuggのJすらわかっていない状態なんですが、
とにかく1stが最高すぎたのと、彼自身に好奇心が湧きすぎてもはやここで吐き出さないといつ吐き出すのかという感じになってきたので、憶測でいろいろなことを書き散らかしたいと思う。よって、下記の私的Jake Bugg観はおおよそフィクションだと受け止めてくれるとありがたい。なお今後文章に重大な間違いが認められた場合にはすみやかに削除したいと思います。


①知的に見えるがおそらくバカである
そもそもこの21世紀にロックンロールをするってだけでも相当バカなんです。
ここでいうおバカとは本当にバカというわけではなく「おバカになれる」という意味です。彼にはこれが十二分にあります。黙っているとその佇まいは悲哀の陰を帯びた美青年、そしてソングライティングに関しては爆発的才能を発露しているJake Buggですが、音楽以外のゴシップではかなりアホくさい。ていうか、そのまんまワンダイレクションに噛み付いていることなんですけど……。だって批判なんかしなくたって、そもそも畑違いじゃないですか。でもあえて噛み付く。この面倒臭さはそれこそ大御所リアム・ギャラガーやブレッド・アンダーソンに引けを取らない……「あいつら自分で曲書いてねえ」までは、まあまだわかる。でも最終的には「歌うまいのはあのブサイクだけ」とか女子高生みたいなやっかみになるのは何故。君、何だかんだ言ってワンダイレクションのこと好きでしょ? なかでもハリーに執拗に絡むのは、やっぱり元カノの影響がでかいのか…?ハリーには思いっきりスルーされているところに痛さがただよう。 でもJakeのそういうところが大好きなんだ。ていうか、そういう発言が許されるイギリスのロッカーに対しての寛容さとマジさが好きだ。日本の芸能システムじゃ絶対に無理。例えるなら、弱冠20歳くらいのロックンローラーがジャニーズアイドルたちを音楽誌でめたくそに口撃しているようなものでしょうか?ぎゃー。想像するだけで恐ろしくなっちゃう!


そしてツイッターの最新画像がワンダイレクションのケーキデコレーション(?)画像なのがうける。ミッシェルって誰だ?「ありがとう!はやく使いたくてたまんないよ!」って、皮肉か?! ガキ臭っ!だがそこがいい!!!
でも……そろそろツイッター更新してくれ!!!


意外と単純っぽくて親近感が湧きます。


②目つきがヤバイ


Jake Buggの目つきがわりとヤバいのはみんな(口に出さずとも)思っている節があるはず。なんかヤバイじゃないですか。薬でラリってるとかそういう種類のヤバさじゃないからこそ、すごい不安になる。どうしたら21歳でこの目つきを手に入れられるのだろう、という不可思議さがある。この目に光が宿ることはあるのでしょうか。


③恐らくサン・ローラン(エディ・スリマン)に気に入られている



実は彼、ハタチですでに有名メゾンの広告塔にまでなっちゃっているんです。
この革ジャン、49万円するそうです。ゴイスー。PVでも着てらっしゃるようです。
エディ・スリマンといえばデヴィッド・ボウイの大ファンで、彼に洋服を提供(というかほとんどプレゼント)していたことでも有名だ。
ボウイとは全く違うタイプではありますが、Jakeにも魅力を感じているのはほぼ間違いないんじゃないですかね。
ていうかJakeは絶対おじさん受けするタイプのアーティスト。
「坊主、渋いことやってるじゃん!」ってノリで応援しちゃいたくなるやつでしょ。だってこの21世紀にアコギ一本でロックやってくとか潔すぎるし泣けてくるものがある。これは同じUKの若手ザ・ストライプスにも感じること。
つくづくロキノン受けが良すぎるアーティストだとおもう。


あれ、音楽のこと一切触れていない??
アルバムの中で言うとBroken,  Two fingers, Taste it, Seen it All,  Slideが好きです。(いきなり)
でもYouTubeでホールコンサートの映像を見て思ったのですが、CD音源と全然違って驚きました。声太くなった…??
Jakeの声って高音になると裏返るか裏返らないかの瀬戸際で、へろへろしている印象があったので、すごく声の芯がしっかりしていてびっくりしました。このへろへろもすごく好きなんですけど、男性的な声も良いですね。ますます渋くなってきてますね。
あとちょっと気になるのは顎肉なんだが……いや、ルックスとか全然気にしてないんだからね〜〜〜! 成人男性はいろいろと複雑だとは思う。代謝も変わってくるし、10代のときのように何食べてもガリガリではいられない……だけど……だけど……二の腕あたりにやや、不穏な空気を感じはじめている………気のせいだと思いたい。

2015年6月10日水曜日

今更だが『愛のコリーダ』を観た。

ひょんなことで大島渚監督の『愛のコリーダ』を見た。

以前まで、私は大島渚監督の作品は『戦場のメリークリスマス』と『御法度』しか見たことがなかった。どちらも大作であるが、多くの場合、大島監督の代名詞として出されるのは『愛のコリーダ』のほうなんじゃないだろうか。
それほど知名度が高い映画なのに、現実社会でこの映画の感想が囁かれる機会は戦メリや御法度に比べてガクッと少ない。

映画が発表された当時「ヒョーゲンかワイセツか」問題で様々な物議を醸したそうだが、今でも話題になるのはその点だけであるような気がする。
映画の魅力自体については、誰も語ろうとしない。


その謎がきっぱりと解けた。だってこれ、バリバリのポルノ映画だからである。
言葉が悪いが、要するにずーっと入れっぱなし、やりっぱなしの映画だ。しかも役者が本番をしてしまっている(疑似ではなく実際にやっちゃう撮影を「ハードコア撮影」というらしい。はじめて知った)。
正直言ってこの映画はセックス以外に見所はないし、セックスにはじまりセックスに終る。男女の局部が丸写しにされ、中には見たくもない醜い性器まで見させられる。
ある種拷問のような映画でもあるのだが、それとは対称的に、美しい場面はとことん美しい。定(松田瑛子)と吉蔵(藤竜也)がセックスをするのは料亭や旅館であるわけだが、質素な部屋に彼らの着物や帯、白い肌のコントラストが壮絶である。

とくに定の着ている着物は美しい。ここまで原色の着物がぱきっと似合うのは羨ましい限り。襟の抜き方もサマになっているし、まさに「粋」な女性をそのまま体現している。
そしてなにより吉っさんである。藤竜也ハンパない。藤竜也がいなかったらこの映画は成立していなかった。女優を活かすも殺すも相手次第、ということがよくわかる映画だ。
定のすることには全部肯定し、彼女を受け容れる優男の吉蔵。それを自然に演じてしまえる藤竜也はやはりすごい俳優だと思う。
フツーの価値観を持つ女性の私から見てもこの藤竜也には惚れてしまう。

このあと藤竜也はしばらく仕事を干された(らしい)が、なんでそんなもったいないことを……と涙が出そうになる。この脂ののりきった時期の藤竜也様の演技をもっと見てみたかったと思う今日この頃。「愛のコリーダ」より前か後かわかりませんが、だいたい同じ時期に沢田研二様とドラマで共演していますのよね。この演技もなかなかヤバイので(おホモ)是非レンタルで見てみてほしい。ちなみに「悪魔のようなあいつ」です。

2015年6月4日木曜日

昭和歌謡曲


今週のNHK歌謡ショー、そして民放の水曜歌謡祭。
どちらもジュリーが流れましたね!(後者は音だけでしたが)

氣志團の綾小路さんが「おまえにチェックイン」について「この曲ってお持ち帰りソングなんですよ。まずこの当時、ジュリーに誘われて断る人はいない」というようなことを言われていて首がもぎれるほど頷きました。(笑)
そうなんだよ。爽やかに歌ってるけど、あれ、乱暴に要約すれば出会ったばかりのちょっとイイなって女性とホテルでねんごろになって翌朝「やっちまった…」ってなるだけの曲なんだよね。それをあの時代に、あまりにもポップに華麗に歌い上げてしまうジュリー様。すごい。ジュリーのすごいところは色っぽいのに下品じゃないところ。だから一歩間違えば引いちゃうような歌詞を歌っても全然問題ないのだ。これはすごいことだ。

で、綾小路翔さまの「おまえにチェックイン」カバー。すごくよかったと思います。
正直ジュリーカバーのはなしを聞いた時は、「ええっ……あのしゃがれ声で“カサブランカ・ダンディー”とか歌われたらどうしよう……」って無駄な心配をしていたのですが、さすが翔様、自分のキャラクターをわかっていらっしゃる。
後ろのE-Girlsは必要なのか?って思ったけど(ごめんね)

あとはこれはジュリーと関係ない話なのですが。
テレビはプチ・歌謡曲ブームがきているなあと感じるのは、私だけでしょうか?
なんだかテレビをつけるたびに、若い歌手が歌謡曲をカバーしていたり、昔の歌番組を流していたり……という気がするのだけれど、
偶然なのかな?
これも『あまちゃん』効果なのかしら(実は見ていない)。

最近の薄味なJ-POPに飽きた人たちが、歌謡曲に再び注目しているのかもしれない。
そうだったらすごく嬉しいな。やっぱり親しみやすい音楽で、日本語の美しさを最大限に活かせるのは歌謡曲だけの魅力だと思う。ってリアルタイムでなにも見ていない自分が言うのはすごく烏滸がましい感じがするけど…お許しください。
あとやっぱり、単純に景気がいいときの音楽ってパワーが違うなあって思います。
大衆音楽ってその時々の時勢の影響がモロに出ていて面白いですよね。高度成長期のときは学生運動が盛んだったせいか、学生のアイデンティティクライシスを歌ったような暗い曲もけっこうあるんですけど、バブルのときは思いっきりド派手、なんかテクノでキラキラしてる、悪く言えばパッパラパー…って感じで。
歌謡曲全盛だった時代の、だいたい20年くらい、その揺れ幅の大きさを見るだけでもすごく面白いと思います。

今の音楽は正直よくわからないのです。
ロック雑誌を読んでても「これってロックなのか?」ってバンドばかりで。歌詞もなんかJ-POPと大差ないような、完全にマジョリティー寄りなことしか言ってなくて。たとえマジョリティー側に居たとしても、本当にいいことを言っているかと言ったら、そうでもなくて。とてもその人の本心から出ているマジな言葉だとは思えないのよね。ただリフレインみたいにスキだの一緒にいてほしい、だののフレーズが並べられているだけで。なんだかなあって。アホらしくなってしまった。なんか大衆音楽も、ロックも、テクノも、アイドルも全部ごっちゃまぜになってしまったような。住み分けがなくなったぶん、どれも同じように聞こえる。心に沁みるように「いいなあ」って曲に、なかなか巡り会えないのです。
でもなんでも頭ごなしに今の音楽は良くない良くない!って現状否定してるだけじゃあ駄目だなって最近思いはじめて、がんばって今のいい音楽を探そう、積極的に聴こうとしているんですが…気づくとプレイリストが昭和歌謡と80年代のロック、90年代のポップスに戻っています(笑)だめだあ。

神聖かまってちゃんが言うところの「最近の曲なんかもうクソみたいな曲ばかりさ なんてことを君は言う いつの時代でも」という歌詞にこれほど共感したことはない。(“ロックンロールは鳴り止まないっ!”)
私も着々と老害になりつつあるのだな。。
いろいろしゃべり散らかしてしまいましたが、お口直しということで永遠に色褪せない美しいジュリーを貼っておきます。





NHK歌謡ショーで流れた紅白ジュリー。
めちゃくちゃカッコイイけど、上着脱ぐところでちょっと慌ててるのがかわいいよね。
完全に脱ぎきれなくて片方だけ肩にかけてるんだけど、その機転の速さがすごい。
夜ヒットDVDでも『勝手にしやがれ』でジャケット脱ぐのに苦闘してた回があったように思う。ジャケットをすばやく、かっこよく脱ぐ、って意外と難しいのかもしれません。

2015年2月3日火曜日

"Kyoko's House(鏡子の家)" ———三島由紀夫、幻の伝記映画 "Mishima: A Life In Four Chapters"(1985)

「哀れな奴らだよ。自分たちが生きてないってことにも気づいていないんだから……」

“Kyoko's House(鏡子の家)”で、売れない俳優を演じた沢田研二のセリフ。
肉体的コンプレックスと、老いへの恐怖、美への執心……。三島が繰り返し呈示するこれらの題材は非常に形而上的で、私たちの想像する「美」とは遠い場所にある。三島の美とは強いられたものだった。その不気味なまでに均衡性の保たれた美は、見る者を蠱惑し、同時に絶望へと突き落とす。彼の考える男性の美とは終末論的時間……つまり死をもって完了するためだ。


映画全体を覆う異様な配色の美術セットが、一層、美しい青年の虚無をえぐり出しているようだった。

……さて。やっと観ましたよ、"Mishima: A Life In Four Chapters"。
前々から存在こそ知っていましたが、評判があまり聞こえず(日本未公開だから当たり前と言ったら当たり前なのですが)今回動画サイトではじめて観ました。
私ははじめ伝記 映画と聞いて、真っ先にかのヴィスコンティの『ルートヴィヒ』のような、三島由紀夫そのものをありのまま豪華絢爛に描き切った映画を想像したのですが……いやはや、さすがアメリカの監督って感じですね。良い意味で裏切られた気がします。逆に振り切っていて、かなり好きな雰囲気でした。このチープ感漂うセットとか、胡散臭い色遣いとか、ほんといいですね。ある意味、三島の文学を一番理解しているのは海外の読者なのでは?と思ったり。
特に、劇中劇がいい。劇中劇で描かれているのは『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬』———本当はここに『天人五衰』も入るはずだったそうな。ちょっと観たかったなあ。作品と三島自身が交互に出ることによって、現実と虚構が交錯していく感じがなんとも面白い。

劇中劇で一番素晴らしいのは、やっぱり『鏡子の家』だろう。

沢田研二の演技はすごい。
すごすぎて、この名演が実質日本ではDVD 化すらされていないという現実に軽い憤りすら覚える…(なんでだ!)
特に、彼が扉から漏れる光を受け、恍惚とした表情で煙草に火をつけるショットが最高に素晴らしい。ここに画像を載せてもよかったんだけど、ぜひ本編で確認してほしいため、あえて控えさせていただいた。
彼は肉体に痛みを感じることではじめて自身の生を感受した。痛みの極限、すなわち死へと突き進む。芝居の血なんかじゃだめだと言い、女を「真の」刃物へと向かわせる……「本当の血じゃなきゃだめなんだ」沢田研二の 個性的で清澄に通る声が、ここではゾッとするような音色に聞こえる。言ってしまえば陳腐なSMで、痛ましく、セクシャリティな場面なのに、妙な気品さえ漂う場面だ。こんなラブホテルみたいな配色の画面にくっきりとした輪郭をもって凛然と横たわれるのは、さすが昭和スターの貫禄といえようか。あっぱれと言いたい。俳優・沢田研二の圧倒的な存在感に魅せられた一幕だった。私的には、このワンシークエンスのためにこの映画を作ったと言われても納得してしまう。買いかぶり過ぎかな?

YouTubeにもニコニコ動画にも、今のところ全編上がっているので是非ご鑑賞いただきたい(分割されていないぶんYouTubeのほうが見やすいかも)。ちなみにテレビ画面で見たいよ〜と言う方は、『三島由紀夫の一九七〇年』という単行本の付録DVDとしてこの映画が付いているらしい。版権元無認可のいわゆる海賊版ですが、気にならない方なら良いのではないでしょうか。海外版DVDもAmazonにありますが、 すべて中古のためちょっぴりお高いです。

2014年12月21日日曜日

中村文則『土の中の子供』を読んで

最近、中村文則の『土の中の子供』を読んだ。
これは記念すべき芥川賞受賞作。
なんか思ったよりもえぐい話だったなあ。きちんと頭のなかで整理するためにも、もう一回くらい読み返す必要がありそう。

芸術作品では、よく、海は母親、大地は父親に喩えられたりしますけど、この作品での土の中とは、それらを超越したもっと意識の上にあるもの…凡庸にいえば神とかホトケとかそういうことになるんでしょうけど、もっと漠然とした力のようなものに守られている安心感…みたいなのをあらわしているのかなあ。と。
主人公は土の中に安心感を感じつつ、でも同時に違和感を感じる。その違和感の正体を掴むため、それで、もう一度地上に戻ってくる。
地上って業をもった人たちの集まりだし、非常につらい場所だと思う。そんな場所に生み落とした親を恨んだって、その親もそうして不本意に生み落とされた一対の人間に過ぎず、その恨みや鬱屈としたきもちは、世界の誰にもぶつけることができない。
だからわたしたちはこうして何かを書いたり読んだり、見たり触ったり、話したりして、なんとか自分を納得させようと、意味を見出そうと(もしくは意味なんてものをなくしてしまおうと)しているのかもしれない…。

この作品、ちょっと萩尾望都の『残酷な神が支配する』とダブるんですよね。
「私」もジェルミ同様、まだ子供の時期に残酷な虐待を受けていますし。
あと、ラストシーンで、墓(土の中)から手を伸ばしたサンドラが、ジェルミにキスするじゃないですか。あれなんて、まさに土=神の象徴にしているシーンだと思う。
またこの作品のモノローグに「子供は親への供物」というのがある。子供の人生そのものが親への、つまり神への供物になっている。だから、人間は永遠にこのしがらみからは逃れられない。罪のDNAとでもいうべきか、無限に伝承されていく。
この漫画を読んだとき、人間っていうのは意識的にせよ無意識にせよ、かなり恐ろしいことをやっているんだなあと感じたものです。

萩尾望都自身、親と子の確執をずうっと描き続けてきた作家だと思うのですが、中村文則もそうなんじゃないか、と思っていて。
中村作品の主人公の「私」には大体親がいなかったり、いても本当の親じゃなかったりする。ここまで執拗に親という存在を消しまくるというのは、かなり親への拒絶感があるんだと思うんです。言い方は悪いですが、親が居る限り子供は永遠に親の所有物にすぎず、その枠からは出れないんです。養育費や学費をすべて返そうが、今まで育ててもらったことに対する負い目のようなものは、親が生きている限り、否、亡くなってもなお付きまとうのです。
では、親に捨てられた子供の場合はどうか? もうこれは完全に親と子の関係は断絶されますよね。親が子供を縛ることはできません。でも、今度は子供が自発的に親に縛られようとする。『土の中の子供』の主人公もそうですが、暴力を振るわれる自分に存在意義を見出すようになってしまう。
最後は実の父との再会を拒絶することにより、完全に個となった自分を回復します。
私は、この話を断絶された親と子の物語だと読みました。

わたしが中村作品を読みはじめたのは、わりと最近。いちばん初めに読んだ本は『銃』だった。
銃を拾ったことをきっかけに、銃の魅力にとりつかれる若い男の話。めちゃくちゃ優れている小説だとは思わなかったけど、一気に読ませる話だなあと思った。警官に尋問されるところはかなりどきどきした。 こういうはなしって書き方によってはすごい陳腐になりそうだけど、中村文則の文章からはそういう下品さを感じない。文章とか、文体とはなんぞやってくらい淡々としてるんだけど、どこか静謐なつめたさがあって、私は彼の文章を読むとちょっと背筋がひゅっとするような感じがします。

「作家はデビュー作に向かって成熟する」って言ってたのは誰だっけ?三島由紀夫? (亀井勝一郎氏でした)わかんないけど、中村文則はまさにそれにはまるタイプの作家さんなのではないだろーか。と、ぼんやり考えたりしました。

2014年11月20日木曜日

「すべての仕事は売春であり、愛である」———『pink』岡崎京子

pink


この前、久しぶりに読み返してふたたび「はあ〜〜」と感嘆のため息をついてしまった漫画。進んで漫画本を買ったり、漫画雑誌を買ったりということをしなくなって久しいけど、この時代の漫画はすごい、と思う。
タイトルの言葉はもうこの漫画を読んでいる方にはおなじみである、ゴダールのことば。
(「売春」のあとに「愛」と付け加えたのは、たぶん岡崎先生だと思うけど)
ピンク色のカワイイ装丁に、この格言が載っているのが最高にクールだと思った。

『pink』を読み返しながら、今週の月曜日に楠本まきの全集を買い、『Kの葬列』を読んで頭が完全にやられたのを思い出した。こんな暗示的で、退廃的で、緻密で複雑な構成の漫画がマーガレットに載ってた時代って……どれだけ水準が高かったんだろう、と。同時に、今売れている中村明日美子をなんとなく彷彿とさせる感じで。こっちが元祖だったんだな、と。発表から軽く二十年も経ってるのに(私生まれてません)まったく古さを感じさせません。これはどちらも同じ。
で、話を戻すと。


岡崎京子の『pink』でひときわ興味深い場面があります。

 ワニと暮らすユミちゃんが、部屋に南の植物を持ち込んで熱帯雨林に改造した結果マンションをめちゃくちゃにしてしまい、無一文でハルヲくんのところにワニと共に乗り込んでくる場面。
ハルヲくんはユミちゃんと違いフツーの大学生なので(オバさん相手に体は売っているが)いわゆるボロアパートに住んでいる。

  「なんでこんな狭いところに住んでいるの?」

といたって純粋に疑問を訴えるユミちゃんに対し、ハルヲくんは呆れ気味に、

  「みんながポパイみたいに暮らしているわけじゃない」

で、このユミちゃんの返し方がすごい。
  「でもわたしはアンアンのグラビアみたいに暮らしたいな」…… 

(すみません。原書が手元にない為、記憶のまま抜粋しています)


 高校時代の友人で、このユミちゃんみたいな子が実際にいた。 ふだんからとびきり可愛らしい恰好をしていて。 女の子らしい明るさと、天真爛漫さ、そしてユミちゃんと同じ、ぴかぴかの爪。 学校帰りにパルコやルミネでひとしきりお買い物して、紀伊国屋書店で雑誌を買って。 スタバでお茶して。(pinkだと、まだドトール)

 その子は他の子と違って 「今お金がないの」とか「金欠なの」 って言わないのが、すごく不思議だなって以前から思っていた。 いつでもどこかに行こう、どこそこで遊ぼう、買い物しよう、と私を誘ってくれる。 もちろん、実際お金に困ってないのだろうし、その子はバイトもしてないから単純に家が裕福なのかもしれない。 でも、私にはこう聞こえるようだった。

「だってお金がないってことは、幸せになれないってことでしょう?」

 お金がなきゃ幸せになれない。
子供のころから身も心も資本主義にどっぷり浸かり切って、拝金主義が染み付いた私は この言葉がちくちくと胸にささる。 『ベルサイユのばら』でこんな場面がある。 王妃の親友ポリニャック夫人がなかなか宮廷に上がってこないことについてマリー・アントワネットが問いつめると ポリニャックは「お金がないからであります」と恥ずかしそうにこぼす。 そのことにアントワネットが 「まあ、お金がないなんて、そんな恥ずかしいことを言えるなんて!」 と、彼女の素直さ(?)に感動するという、今見たら爆笑が止まらない場面があるが、 小学生の私はこの言葉を、純粋に受け取っていた。 その後、贅沢三昧の暮らしも破壌し、ポリニャックにも捨てられ、ついには息子のお葬式すらできなくなるアントワネットの落ちぶれぶりに お金って言うのは絶対的なものなんだ、としみじみ感じたのである。

 ユミちゃんはピンク色の美しい薔薇をみて 「お金でこんなに美しいものが買えるなら、いくらだって働こう」と決意する。 ユミちゃんは昼間はOL、夜はホテトル嬢と二足のわらじで、欲望のために稼ぎまくる。 働いて働いて、おいしいものを食べる。ブランドもののきれいな服を着る。長期休暇にはハワイやグアムに行く。 誰だって、日常をそうして過ごしているのに、なんでだろう。岡崎京子の漫画を読むと、それらがおそろしく歪んだものにみえてくる。


 若者がモノを買わないと言われて久しいけれど、 女の子の欲望の根本はほとんど変わっていない。 また、そうして女の子の欲望を喚起させる存在も、ほとんど変わっていない。 それこそ、岡崎京子があとがきで書いている通り「名前と顔が変わっただけ」。

 『pink』と出会ったのは、去年の冬の新宿ブックファーストだった。 大学一年の私は、岡崎京子の世界に完全にやられていた。
かわいらしい装丁の漫画は、思想書とか哲学書が置いてある コーナーの一角で異彩を放っていた。それは『AV女優の社会学』や『消費社会の神話と構造』と同列に置かれていた。私はそれらをまとめて買い上げた。でも、いま思えば『pink』一冊でじゅうぶんだったのかもしれない。 だってここには人が欲望すること、シアワセという記号を求め続けることが、馬鹿な私にもわかるレベルで、私と同じ生活フィールドのなかで簡潔に描かれているから。